東山道武蔵路跡【国指定史跡】

2020/11/29

泉町二丁目の高層住宅街の東側、両端が黄色く塗られた舗装された広い歩道、これが東山道武蔵路跡です。黄色い線は側溝の位置と状態を示しています。

律令国家の成立(7世紀後半~8世紀の初め)に合わせて整備された古代の官道である七道(東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道)の1つ。都から近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、を経て陸奥に至ります。その枝道、上野(現在の群馬県)から南下して武蔵国府(現府中市)に至る支路、ということで「東山道武蔵路」と呼ばれています。
*30里(16㎞)ごとに駅が設けられた。

この官道は、国分寺市内を南北に通過していて、発掘調査の結果、幅12mの道路跡が490mの長さで確認されました。現在、その道路跡の約300メートルが歩道形式の地下遺構として埋没保存(地下0.8~1m)されています。また、北端の情報通信政策研究所脇には、谷部に下りる切り通し部分の遺構レプリカが野外展示されています。また、多喜窪通りの南、旧第四小学校跡地(西元町二丁目にも市立歴史公園として道路の変遷が示されています。築造時期は650年~675年頃と推定されています。

なお、「東山道武蔵路跡」は、まちセンが選定した『国分寺百景』にも入っています。


*都立武蔵国分寺公園を含むこの一帯は、旧国鉄(日本国有鉄道)の中央鉄道学園跡地であり、国鉄の分割民営化に伴い、住宅公団、都住宅局等に売却され、開発前の発掘調査で道路遺構が発見されたもの。平成7年(1995年)11月17日付の読売新聞夕刊は「東山道とみられる遺構を確認した」と大きく報道した。

その後、団地開発を急ぐ行政に対して「保存する会」が発足、その粘り強い運動の結果、保存が実現した。