白明坂(しらみざか)

2020/05/15

多摩蘭坂下から内藤橋へ向かう道路(市道幹8号線)の国分寺崖線を登るかなり急な坂。昔は坂の上からは、府中方面、分倍河原、多摩川まで一望できたと思われます。

名前の由来は、皇国地誌(こうこくちし)によると、1333年5月(元弘3年)鎌倉幕府に反旗を翻した新田義貞が、分倍河原に布陣する幕府軍に闇夜に乗じて夜襲をかけるべく南下、坂の上で小休止し、いざ進もうとしたところ鳥が啼き、白々と夜が明けて(白明)しまい全軍大いに失望した、そこでその後その地の人々(里人)はこの坂を白明坂と呼んだ、という記述によっています。

皇国地誌では、場所は特定されていませんが、明治7年の地籍簿ではここが白明坂とされています。 なお、皇国地誌は、明治新政府が明治初期、全府県に命じ編纂を目指した官撰地誌であり、未完に終わりかつ関東大震災で残稿の大半も焼失したものの大変貴重な史料です。

また、太平記等によると、新田義貞は足利尊氏等と呼応し、5月8日上野国で挙兵、5月11日小手指の戦い、5月12日久米川の戦いで幕府軍を撃破、分倍河原の戦いでは5月15日には敗れたものの、直ちに体制を立て直し翌16日には勝利し、その勢いで鎌倉に進撃。5月18~22日の鎌倉の戦いでは激戦の末鎌倉に突入、北条一族は自害、鎌倉幕府は滅亡したとされています 挙兵からわずか2週間、各地からの援軍で膨れ上がった新田軍の怒涛の勝利だったようです。